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OrijyoRikughi009S「 紬屋吉平 永江明夫の綿薩摩の誠実無比 」

GoldenClassic


織り匠
六義

bespoke
おとこのきもの
no. 9

「紬屋吉平 永江明夫の綿薩摩」
絵羽仕立て




「紬屋吉平」がもとは紬屋ではなく越後上布を商う「上布屋」だったとは知らなかった。


そして、店の看板であり、きもの好きなら憧れの的であった浦澤月子さんが実は5代目の次男に浅草から嫁いだ「お嫁さん」であったことも意外だった。

5代目の長男、次男どちらにも店を継ぐ意志がなかったのだそうだ。


困り果てた5代目である「義父」は月子さんに商才があると見抜き、店を継ぐことを頼んだ、「自分の代で店を終わらせるのはどうにもやるせないんだ。」。当時、月子さんは三歳の長男を心臓ぜんそくで亡くしたところでやるせない悲しみに囚われていて、それどころではなかったが、「心機一転するためにもやってごらん。」とご主人に励まされ六代目としての修業を決心した。


当時は「紬屋吉平」は日本橋に店があったが、それは戦災で焼けてしまった。それをきっかけに「銀座に出るべきです。」と月子さんは「義父」に進言した。


昔気質な「舅」は日本橋に戻ることを愉しみにしていたが、月子さんの進言に素直に従った。なぜか、本当の親子以上に「舅」と「嫁」は「馬が合った」のだ。




価格 : 673,200円 (税込 円)
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  • 昭和25年の秋に銀座通りに「紬屋吉平」の看板があげられた。 昭和30年に5代目が身体を壊し引退し、昭和32年に亡くなってから文字通り「浦澤月子」さんが店の看板となった。そこから「紬屋吉平」の名が世により鮮烈に浮き上がってくる。 草木染め、手紬ぎ、手織りに拘った「紬屋吉平」のきものはときに思わぬほど大胆だ。代表的な着こなしは当時22歳であった女優高橋恵子をモデルに1984年から始まり、1993年ごろまで続いた「家庭画報」の「浦澤月子」名義での毎月の連載に記録されている。 月子さんは大正10年に浅草で生まれ、美貌の芸者として久保田万太郎など当時の文人に可愛がられた。「紬屋吉平」のきものは先代仕込みの「好み」もあっただろうが、一世を風靡したのは月子さんの生まれ、育ちからの「着こなし」の才に負うところが多いと思う。 興味深いのは「お茶席や公の場で十二分に通用する紬」を売り物にしていたことだ。月子さんは「紬、織りのきものの地位」をあげようとしていた。当時、「結婚式にも紬で出かけられる」と広言する銀座の呉服屋、「着物評論家」はいなかっただろう。 もちろん月子さんは、十分に「結婚式にも出かけられる紬の留袖」をつくる。 「家庭画報」に残された「着こなし」は柄ごと、季節ごと、場面ごとに分かれていて、わかりやすい、しかし「教科書的」な着こなしではない、それぞれが魅力的である。 一流誌でそれだけの期間、毎月の連載を持ち、また全国の「きもの好き」にとって憧れの的であり続けたことからもわかるように「紬屋吉平」のきものは独自であった。縞、格子という「基本の柄ゆき」でも他の店の縞や格子とはひと味もふた味も違った。きもの好きは「紬屋吉平の縞や格子」を身に纏いたかった。 白洲正子の「こうげい」も「独自」であったが、それとも異なる。 小林秀雄や青山二郎や柳宗悦など当代一流の人脈に恵まれ囲まれていた白洲さんの魅力はどこか「学術的」で「アカデミック」なものだった。 呉服屋というよりは鋭い眼をもった「美学者」の趣があり、そこに顧客は信頼を置き、魅力を感じた。着こなしも男物のように「対丈」であったり、独得の丈の短い羽織を好んだ。 大正ロマンや戦前の日本のたおやかさを想わせる艶やかな月子さんの着こなしとは大きく異なる。

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